| 避暑地軽井沢で骨に響く豊かな生活を目指して奮闘中。Yuuko のつれづれ日記。 | |||||
2008年07月30日
久しぶりに手入れした庭で
やってしまった!いや、切ってしまった!大事に見守ってきたものを。
ひんやりとした高原らしい空気が戻って、今日は久しぶりに昼間から庭の手入れに取りかかった。連日の夕立ちは植物にとっては恵みの雨。人の足に踏まれる心配のない場所では、ぐんぐん背丈を伸ばし、なかでも特にツル性のものは僅かなスペースを見つけて縦横無尽に広がっていく。木の幹や枝に絡みついて、更に上を目指すものもある。これも、すべては”日の光に少しでも近づきたい”からなのか。草むしりや草刈りといった庭の手入れは決して楽なものではないが、刻々と移ろう季節をいち早く感じたいなら、これに勝るものはない。

しかし、久しぶりのことだった。グランドカヴァーはゲンノショウコの葉に変わり、フウロをミニチュアにしたようなその可憐な花をテーブルに生けようと切ったその手で、隣のサラシナショウマの枝まで切り落としてしまったのだ。アッという間のことだった。秋の夕日に光輝くサラシナショウマは大好きな山野草のひとつ。他の株がしっかり育っているので幸いしたが、これから咲く花の、小さなつぼみを誤って断ち切ってしまったことは、やはりショック。丸底フラスコのようなiichikoの瓶に、ゲンノショウコや桔梗と一緒に投げ入れてリビングに飾る。あぁ、本当に小さなつぼみ。
2008年07月28日
夕立ちが変?
最高気温が29~30℃という日が連続して6日続いた。「軽井沢もいよいよ暑くなったなぁ~」夏の家で、そんな風に肌で感じている方も多いかと思う。暑さに比例して、こちらもおかしいなと感じるのが毎日起こる夕立ち。たかが”夕立ち”と一言で片付けてしまってはいけないほどの激しさで、大気の状態が特に不安定だった昨日に至っては、2時間におよぶ暴風雨に。強い風に落葉松は大きく揺れかしいで、雨は容赦なく建物を叩きつけた。窓にかかる水しぶきは船内から眺めのよう。リビングから、外で起こっていることをただ眺め、雨雲が去るのを待つしかない。悪夢...そんな言葉がぴったり。
片流れの屋根から落ちる雨の塊を北の窓から眺めてみたが、流れ落ちる雨の量より、その激しい音に驚いてしまった。沸騰したケトルが出す”怒涛”という湯の音のようである。北の庭で(今年の)春を告げたコブシは、早々と落葉をはじめていた。それが、連日の夕立ちで急かされるように葉を地面に落としている。こんなひどい空模様の時、鳥たちはいったいどこで過ごしているのだろうか?そんなことをぼんやりと考えていたら、コブシの枝に身を寄せている一羽の鳩を見つけた。穴の開いた蛇の目傘のような木をあえて選ぶなんて、雨に濡れることより身を隠す方が大事なのかもしれない。こんな時には、家というもののありがたさがよくわかる。夏の夜には”野生動物から身を守るため”と感じたこともあるし、極寒の冬では毎日が、紛れもなく”冬山のベースキャンプ (テント)”となる。人の生活には衣・食・住が不可欠なことを、異常な気象の中で痛感するなんて。いや、異常だからこそ かな。

雷・大雨・洪水注意報が出るのが当たり前の一週間なんて、やっぱり変だなと思う。今日は昨日までの暑さとは一転して、明け方の気温は15℃と肌寒い朝。綿毛布だけでは肌が冷たくなって一度は目覚め、足元に置いた羽毛布団をしっかり被って再び眠りについた。日中も21℃が最高で、長袖でもちょうどいいくらいの陽気に。季節は秋へ先送りされたか、それとも梅雨時に戻ったか。そんな風に錯覚してしまいそう。道路には枝葉や青い木の実が散らばり、荒々しい水の跡が残ったままだ。
軽井沢は今、ユリの季節を迎えている。暗がりで咲くウバユリは自転車では通りすぎてしまうほど地味な花だけれど、歩きならこのユリの多さに驚いてしまうだろう。子供の目線なら、一風変わったお花畑に見えているかもしれない。透き通るようなレモン色のユウスゲを素通りしてしまう人は、おそらくいない。我が家のウバユリもあれほどの雨をかぶったというのに、無傷。強いものだ。昨日はつぼみ姿だったカサブランカが、この時を待っていた!とばかりに花開いた。老若男女問わずに、これだけサイクリングが楽しめる町も珍しい。明日からの空が、少しづつでも穏やかなものとなりますように。

2008年07月25日
山が開いていく 週末
昨日あたりから次々と別荘の一角に車がとまりはじめ、町は静かな賑わいをみせている。
これまで、誰ともすれ違うことのなかった通りで人と会うようになり、朝から挨拶を交わす。
鳥と虫の音だけが支配する朝靄の中に、淹れたての珈琲の香りを見つける。
一年のほとんどがゴーストタウンのような場所もあるのに、ある時期になると関東一円から人が集まってくる。避暑地とは、よく考えたらとても不思議な場所かもしれない。具体的にいつと決めなくても、だいだいこの週あたりになると街の暑さもピークを迎え、皆さん自然と夏の家に足が向かうようだ。今年もまた、無事に”山が開かれていく”ことは、住んでいる私も嬉しくなる出来事。夏の家も、久しぶりに風が入って喜んでいるように見える。
私は、生まれてから一度も震度4以上の大きな地震に遭遇したことがない。だから、数日前に岩手県で起きた震度6強の怖さも、経験するまで想像の域を出ることはないと思っている。大地震の恐怖を抱えながら毎日を生きることは、果たしてどのようなものだろうか。少々の「暑い、寒い」は、二の次になるのではないだろうか。軽井沢も30℃という、これまでなかったような暑さが3日も続いているのだけれど、30℃以上の熱帯夜になることはまずないのだから、ありがたいと思わなければ。
今日の夕方、雲が暑さに悲鳴をあげて起こったような夕立ちは、台風と名を変えてよいほどの激しさだった。暑すぎること、寒すぎること、降りすぎること、(風が)強すぎること...。気候に限らず、○○過ぎることは、身の周りに危険が忍び寄るサインのような気がする。空も海も地面も空気も、この星にあるものすべてが繋がっている。自分の敷地内なら何をしても、このラインを超えれば誰も困ることはあるまい...そんな都合の良いことは起こらないのだ。

今年になって北の庭に突然現れた直径1mにもなるウバユリが、つぼみを広げようとしていた。周りを見渡せば林の中にも見つけることもできるから、土の中に球根が残っていたのだろうと思う。
「しかし、まさかコンクリート壁を背にして咲くことになるとはね...」ウバユリからは、こんな声が聞こえてきそう。植物や虫、鳥といった生き物と共にある暮らしは、日々小さな発見を私にくれる。決して大自然ではないれど、無意識のうちに”五感”という閉じがちなドアを開いてくれる。自然がこれまでの姿を変えることは、巡り巡って自分も変化を余儀なくされるということ。野生動物と同じように!とまではいかないけれど、できるだけ自然に対して敏感に向き合っていきたいと思う。
2008年07月23日
紅一点
今日の暑さはいつもとレベルが違っていた。気温はなんと30℃!午後から外出する私は、いったい何を着ていけば久々に会う友人に失礼がないか?こんな日にはどんな服が心地よいのか?を考えていた。いまの季節、クローゼットの棚に並んでいるのは七分袖と半袖に長袖。お目当てのノースリーブが見当たらない。あるはずがないのである。なぜなら、今年になってノースリーブなど一度も着ていないからだ。しかも、あまりに使用頻度が低いため、昨年 そのほとんどを処分していたことを思い出した。こうなったら、すがるのはオーガニックコットンか麻である。体のラインに張りつくものはやめて、余裕のあるパターンを選ぶ。色は、白にしようか。
いつもオシャレな友人は、涼やかな装いで迎えてくれた。「今日はさすがに着てしまいました!」というノースリーブのシャツはストンと落ちる素材で細かな縦ストライプ。暑い日には、見た目も涼しげな配色と素材感が大切なことを教えてくれる。太陽が傾いたころを見計らって、夏の庭を散策させてもらう。本人いわく、「いまは、緑ばかりで何もないけど」なのだ。しかし、白とブルーだけでまとめた山紫陽花は圧倒的なスケールで咲き、いたるところに背の高い真っ赤なエンビセンノウ?のような花が。聞けば、それはベルガモットなのだそう。顔を近づけてみると、花から葉から、あのアールグレイの香りが確かに感じられた。私はこの一瞬で、すっかりこの花の虜。赤い花など山野草の多い庭には似合わない。ずっとそう思ってきた。しかし、同じ赤でも様々。株分けしてもらったベルガモットをさっそく庭に植えてみる。確かに緑の中では紅一点。しかし、トラノオが横にあるのに不自然ではない。現代アートのような色の配置を可能にしてしまうのも、緑の底力なのだろう。

2008年07月20日
山という遊び場
空気がカラリとして、急に爽やかな陽気になったなぁと思っていたら、梅雨が明けたという。夏休みのはじまりのようなこの三連休は、朝の早い時間からゴールデンウィーク時のような本格的な道路渋滞。しかし、渋滞の列に混じってしまっても、なぜか「嫌だなー」という気持ちにはならない。「車に乗って遠路はるばる遊びに来た人々に負けないくらいに、私達も楽しまなきゃ!」という気分にさせてくれるからだ。

そう、この地の夏は短かい。だから住んでいる者はなおさら、夏を謳歌しなければ。先週に続いて向かったのは佐久の岩場。クライマーらしい車が何台もあったので、今日は賑やかになるなぁと思っていた。しかし、目的のエリアに着くと誰もいない。三連休だというのに、いや三連休だからだろうか?別のエリアで新たにルートを作る開拓クライマーが来ているだけのようだった。よって今日は、ありがたいことに山一つ分が貸切状態である。美しい林の中でのクライミングは、目的であるクライミングがどうでもよくなる誘惑でいっぱい。木漏れ日・風・静寂...だたそこにいるだけで、身体のどこかでいつもカラカラになっている電池が、なみなみと充電されていくのがわかる。
昨年の台風の影響で道路が遮断されてしまったため、岩場の真下に車を置くことができなくなってしまった。よってアプローチにかかる時間は、5分から30分へ増加。背中がぐっしょり濡れるほど汗をかくのは何年ぶりだろう。しかし、車で通り過ぎるだけでは知り得なかったものを見ることがことができた。
ここは佐久市のはずれ。畑と民家が入れ籠のよう重なりあう、静かな山里である。畑には、野菜だけでなく果樹も植えられている。これはいったい何だろう?と近づいてみると銀杏の葉!ということは、この梅のような実はギンナン?ギンナン畑にするなんて、きっと需要があるのですね。

そして、こちらもはじめて見たズッキーニの実る様!花が市場に出回ることはまずないけれど、天ぷらにしたら美味しそう。信州のズッキーニは今が旬!グリルにラタトゥイユに、夏のおいしさが凝縮したようなこの野菜は我が家の定番。
軽井沢にはないネムの木が風に揺れている。午後3時をまわって急に吹きはじめる強めの風は夕立ちのサイン。今日、様々なものをくれた山にも必ず持ち主がいる。これほど素敵な環境を貸してくれるなんて、寛大な気持ちがなければできないこと。とてもありがたい。


2008年07月18日
夜の暗く静かなカープール
「いいデザインって何だろう?」
ふと、身の周りを取り囲むモノたちを見つめて、そんなことを考えてしまうことがある。
なぜなら、ここにあるモノすべてが必要とされ、世界の誰かによって生み出されたものだから...。
「いいデザインは、きっと日々使い込まれるモノ」
「長い時間使い込まれることを想定して、つくられたモノ」
というのが、いまの私が自信を持って言える答え。
家の中には、飾られたきりで埃をかぶるモノもあれば、休む暇もなく使いこまれる道具(というモノ)もある。日々の暮らしに少しの刺激を求めるのが人の性だとすれば、これまで自分の周りに無かったモノが増えていくのは当然のこと。そうして選ばれたモノの中には、生涯を共にする自分にとって最高のモノもあるかもしれない。それは、使いこんで少なくても一年以上経たなければわからないことだから、本当に稀な出合いだ。
モノに執着する、しない。世の中には様々な価値観が存在している。しかし、一年に一度使うかどうかもわからないモノ。いや、一度でも出番があれば良いが、もう三年以上手を触れていないモノが家の収納スペースの大半を占めて窮屈な暮らしを強いられているのだとしたら、思い出という過去の中で日々呼吸をしているようなものだ。それに、風通しの悪い建物や収納が人の暮らしに良い結果を生むとは到底思えない。我が家の場合は、一人に一つのクローゼットがその目安。新たに増えた洋服や食器のために家具を新調することはなく、1+1が1になるように、常にリサイクルを心掛けている。世界中で、これほどモノに溢れた生活を営む国民は珍しいと言われる日本だが、それはこの半世紀だけのことと思いたい。私の知る祖父の部屋には一かけらの無駄もなく、私物と思われるモノは棚の上と押入れが一つだけ。大勢の来客があれば、自分の寝る間の襖を躊躇うことなく開け放っていた。襖や障子で幾通りもの空間を変幻自在に作り出す日本人の暮らしは、高温多湿なこの国の気候風土に合っていると、つくづく思う。暮らしがモノで溢れ出したのは、おそらく僅か50年あまりのこと。家電製品が増えて日々の生活は豊かになったかもしれないが、襖を壁に変えてしまったことで、家族も含めた人との関わり方や気遣いも薄れてしまったような気がする。そして今、この国民が欲しいものの中には自然の風だったり、静けさも加わろうとしている。
ここにきて、夜の駅前のカープールが暗くて静かな場所へと変化している。これまでの駅前ロータリーと言えば、赤い目を光らせた黒くて堅そうなオウム(王蟲)の集会のようだったのに。今はタクシーも乗用車もアイドリングを止めて、窓を開けて、肺の中まで浄化されるような夜の澄んだ空気を浴びている。
本当に必要なことしか しない、持たない。
”必要は発明の母”この名言を実感する日々だ。
2008年07月17日
麻布のような 緑の天井

足元の草花ばかりに気をとられて、空を仰ぎ見ることを忘れていた。
頭上には、光に満ちた夏の空が広がっている。景色はまるで静止しているように見えるが、目を凝らせば気づく、ゆるやかな風の存在。昨夜の夕立ちは凄まじく、ただちに家の灯りを消して、台風の時のようにただじっと雨雲が去るのを見届けてしまった。しかし、そんな雨がもたらす翌日は輝きに満ちたものになる。

軽井沢の夏も確実に暑くなっている。最高気温が29℃と聞けば涼しいと思えるかもしれない。しかし、太陽まで1kmも近い場所である。だから、アスファルトの上は都心のそれと大差はない。それでも心地良いと感じられるのは、緑が生み出す麻布のような天井のお陰。日が傾いた後に流れる風には、すでに秋の風情さえ漂う。この素晴らしい葉っぱの天井はいつでも、いつまでもあるもの!と錯覚しそうになるが、そうではない。あるのは5月~10月までの6ヵ月間。必要とされる時に開く、カフェのパラソルのようだ。
2008年07月14日
群生する トラノオ

庭の東側がすっかり気に入った様子のトラノオ。春先に少し手入れをしただけなのだが、今シーズンは昨年以上に群生してくれた。暗すぎたり、苔ばかりでは、この植物は花を咲かせてくれない。ご近所さんは、羨ましそうにこのトラノオを眺める。木が大きくなって木陰ができ、それが完全な日蔭となってしまった。地面を覆う美しい苔の絨毯と引き換えに山野草は次第に花をつけなくなり、やがてトラノオも消えてしまったのだという。苔vs花というわけだ。
30℃近い真夏の暑さが続くと、大気の状態は必ずといってよいほど不安定になる。夕方には空がゴロゴロとうねりをあげて、雨は南国のスコールのように降りだす。だから、夏は朝型を心掛けたい。林の中で楽しんだクライミングも15:00をまわれば撤収の準備。帰るには早すぎると思いながらも、家に着いて数分後に降りだした雨にそれで良かったことを実感する。昨日もそうだった。
岩登りって、いったい何のために?と思う時がある。ルートにとりつけば、「登れない!どうして登れないんだろう?」この連続だ。あっさり登れた嬉しさより、自分の力量の無さを痛感させられる時間の方が圧倒的に多い。 しかし、大自然の一部に身を置いて、岩という美しき”巨大彫刻”に近づくことで得られるものやことが沢山あると、最近思う。たまに忘れそうになる瞬間があるけれど、私たち人も自然から生を受けたものだ。だから、自然に還るその日まで、自然の中で遊び続けることができたら、それが本望。
2008年07月12日
窓から見えた 花火
梅雨のさなかとは思えぬ、月光の綺麗な夜。ド・ドーンという音が静まりかえった町に響き渡る。あぁ、今日が長倉神社の花火であることを、この瞬間まで忘れていた。しかし、今から一人で見に行くのもなんだし...。そう思っていると、北の窓の先が急に明るくなった。まさか、我が家から花火が見えているというのか。

そういえば、斜め後ろの土地から落葉松の木がすべて消えていたのである。理由は、昨年秋の台風による倒木と敷地整理のための伐採。春先には浅間山の裾野が少しだけ見えるようになって、雪化粧したかどうかもわかるようになっていた。いま思い返せば、150坪の林が消えて変化したのはその程度と安堵していたのかもしれない。しかし、落葉松林に遮られていたものの中に花火も含まれていたことを、知った。自宅にいながら、誰にも遮られることなく、打ち上げられる花火の全貌を眺めたのは生まれて初めての体験。確かに綺麗で楽しいものだった。しかし、この窓から花火を眺めるのはおそらく今回限りのこと。
軽井沢のどの土地もそうであるように、木が伐採された後には建物が建つ。鬱蒼とした落葉松林だった時よりもずっと魅力的な借景が生まれるのなら、人の手が入ることは良いことだと思える。
2008年07月11日
空気の質が変わる 午後4時
時刻は16:00。あれだけ眩しかった外の日差しがガラリと変わった。デッキにはいつの間にか黒い影ができ、それが小刻みに揺れている。このような状態になれば、エントランスの寄せ植えにも集中して取り組むことができるだろう。外へ出る。
楓の木の下に鉢を下ろし、かかんで作業をはじめると、シャベルを持つ右腕に通いネコのトラオがすり寄ってきた。猫は足音を立てることがないから、首輪に鈴をつけていないと驚くほど無音な動物。今日は夏日だというのに、その毛皮ではさぞ暑いだろう。見ている限りではそう思う。しかし、どんなに毛だらけであっても、私の肌にその毛がへばりつくことはない。それが高原特有のさらりとした夏だ。いつもの挨拶を済ませるとそそくさとデッキへ上がり、ゴロンと体を一回転させる。そして、とてつもなく大きなあくびを一回!人も羨むような、涙目になるアレだ。

山桑の実はいまが旬。庭には、次から次へと野鳥が集まってくる。しかし、鳥たちは慌てることなく、とても静かに食事をする。食べきれないほどのフレッシュな果実は夏の恵み。「ひまわりの種より、ずっと美味しいよ!」ヒヨドリのカップルからは、そんな会話が聴こえてきそうだ。
一眠りして遠くを見つめるトラオ。視線の先には間違いなく鳥がいて、いつもならハンターの目つきに変わるのに、今は優先順位が違うらしい。夕刻のこの空気は何よりの御馳走。デッキの上の2つの動物は、顔をうずめる高ささえ違うけれど、まるで同じようなポースで転寝の誘惑に負けていく。
2008年07月10日
天然資源となる歳月
レギュラーガソリンの販売価格が、ついに180円台に。”スタンドへ行けば、ガソリンは満タンにするもの”これまでの私は何の疑いもなく、そう認識してきた。しかし、いま同じことをすれば簡単に1万円を超えてしまう。店員さんは満面の笑顔で迎えてくれるが、極端に燃費の悪い車を所有している気分だ。
駅までの往復にかかる距離と、この車の燃費は?
いつでもゴミが出せることが便利な じん芥処理場への往復距離は?
今までそれほど気にかけていなかったことが、ここにきて急に気になるようになった。一度のゴミ出しに300円以上かけているのか。こうしたことを意識するのは決して悪いことではない。
あと2年後の2010年は、子供時代の私にとっては遥か先の未来だった。2010年と言えば、宇宙旅行が可能になるとか、地球上の原油がいよいよ底をつくだろうと予想されていた時代。日本の電力の30%が原子力発電によって作られていることを円グラフで知り、それはまだまだ増えるものと教えられていた。しかし、同じ校舎内にある図書館では、広島のピカを題材にした本が推薦書となっている。唯一の被爆国でありながら、その怖さを知っている国でありながら、原子力発電に依存しなければならない本当の理由とは?そんなことを子供なりに疑問に感じていた。夏至や冬至といった日の長さや動きに興味を持ったのも、登下校の時間を楽んだこの頃。休むことなく燃え続ける太陽が、この星の生命を育んでいることを知った。太陽は核融合によって膨大なエネルギーを放出しているが、その恵みを地球上にいる私達が安全に享受できるのはずっとずーっと離れているから。そんな核融合が、自分の住む町内で行われていたら...同じ星の上であっても怖い。この感覚は子供に限ったことではないはず。
石油を”天然資源”と呼ぶようになったのは、環境問題の高まったつい最近のことのような気がする。石油とは、植物や動物の死骸が長い年月をかけて生まれた一種の化石だ。大理石も、プラチナもオパールもダイヤモンドも同じようなもの。いま世界中で起きている石油価格の急騰は底をついたから発生したことではないが、これからをいかに生きるべきか?の道しるべになるのではないだろうか。長期的な見通しのつかない不安定な世界情勢で、唯一信じられるものが天然資源となっている。それは、一見安易な答えに思えるけれど、頷けないわけでもない。世界にはまだ石油が”残っている”ところもある。しかし、この日本には一滴も存在しない。けれども、北欧のように日差しに乏しいわけではなく、山も水もある。自然の恵みをエネルギーに変える手段も技術力も一流だ。輸入しているにもかかわらず安い!という誤った仕組みは、近いうちに終止符が打たれることだろう。
私にとっても、いま起きている出来事は暮らし方を真剣に見つめ直すきっかけとなりそう。薪ストーブ中心の暮らしを選んで本当に良かったと思うけれど、電気もガスもなければ困るのが現状だ。だから、これからは薪も含めて資源を消費する際には、エネルギーとなるまでにかかった膨大な歳月を考えてみたい。今日は可燃ゴミの収集日。朝7:00、ゴミ袋を片手に(東京にいた頃のように)歩いてみると、この時間の素晴らしさをすっかり忘れていた。近々、コンポストを購入すれば、ただでさえ少ない可燃ゴミも更に減って、自分で買ったものを最後まで見届ける責任ある暮らしができるようになる。日々の小さな積み重ねが、未来への大きな財産となることを信じて。
2008年07月08日
梅雨を彩る 涼しげな花
ボソボソと荒れた地面に雨足が強かったことを感じながら、リビングからガラス越しに目を凝らして眺めてきた、咲きだしたばかりの”新しい色”に近づいていった。

つぼみ~花へ、この紫色のグラデーションはもはや神業?!

友人からいただいたトシアシショウマは、想像以上のボリュームで花開いた。ヤマボウシの白いガクは花のように日に日に落ちていく。昨年に続いて、今シーズンもシャラがつぼみをつけなかったため、このままでは庭が緑一色になってしまう、淋しいなぁ...と思っていた矢先のこの白。嬉しいですね。7月7日の七夕をきっかけに、夏の風物詩がポンポンと頭に浮かぶようになるのはなぜだろう?庭の片隅で偶然見つけた、花開く一歩前のホタルブクロ。露がよく似合う。

2008年07月06日
岩を断念して見れたもの
突如 クライミングのテンションが高まってしまった旦那さん。昨夜も、地下のジムでトレーニングに励んでいたようだ。天気予報では降水確率60%の雨を知らせているというのに、「行ってみなければわからない」を連発。こうなると、実際に自分の目で岩の状態を見てもらうしかない。外の岩に触れるのは、いったい何ヶ月ぶりになるだろうか。まずは、いきなり小川山などとは言わずにホームゲレンデの佐久(の岩場)で練習するのが常套手段。車の座席の下に必ず入れていたアプローチシューズが見当たらないと思っていたら、家のクローゼットへ移動していた。そんなことも忘れていたのである。クライミングの世界から、いかに自分たちが遠のいているかに気づく。車を走らせて間もなく、低く重く垂れこんだ雲がフロントガラスいっぱいに広がった。それは、溢れる涙をこらえる子供の瞳。
次第にポツリポツリと、ガラスに水滴がつくようになる。しかし、懐かしい岩場へと続く集落にさしかかると雨は一旦止んでくれた。車一台がようやく通れる林道をいつもの調子で進んでいくと、道路の両端が大きくえぐれている。これは嫌な予感だ。すると案の定、落葉松の大木がまるで通行止めのポールのように道を完全に塞いでいた。この先に車が入ることは不可能。バックでなんとか林道の入口付近まで戻り、歩いて偵察することに。昨年、軽井沢に大きな爪痕を残した台風の影響はここにもあったのだ。岩場には、下から歩いてきたと思われるクライマーが10名ほどいる様子。しかし、やはり梅雨のさなか。乾いた安全な岩は僅かしかない。今にも降ってきそうな空模様を見て、今日登るのは止めようと決める。
気分転換にドライブを楽しむことにして、向かった先は小海方面。どんよりとした空の下では、明るい白樺林が唯一救いの景色となる。小海高原美術館から更に高みを目指すと、偶然 サラサドウダンツツジの群落地を見つけた。山の斜面には、樹齢の検討さえつかない大木が幾つもあり、枝先を見ると花が終わっていることがわかった。花季を逃してしまった、あぁ、残念!と落胆していると、暗がりでそっと咲く小さな花を発見!事情があって、遅咲きになったサラサの花だった。

サラサドウダンツツジの5m以上の大木を目にすることは、日常的に皆無と言ってよいだろう。それほど今では稀少なものだ。自然のままに育ったものは伸び伸びとした樹形が素敵だ。足元には、種がこぼれて育ったと見える幼木や、咲きだしたばかりの菖蒲やヤマオダマキが。日当たりの良い斜面だから、野草の背丈は30センチほどで充分なのだろう。花をよく見るなら、写真を撮るなら、かがんで地面に近づいていかないといけない。雨が降ったり止んだりの天気だから余計に感じる草の匂い、雲の切れ目から太陽が顔を出せば、「この時を待っていました!」とばかりにはじまる蝉の大コーラス。今日の空色のようだった旦那さんの表情が、カメラを渡した途端に晴れ晴れとしたものへ変わっていった。久々の休日に岩に触れたい気持ちはわかる。しかし、こればかりは自然相手の遊び。だから、如何なる時もコンディションを無視するわけにはいかない。焦る気持ちが良い結果を生む確率は少ないと知っているから、私はブレーキを踏む嫌われ者に徹する。
2008年07月05日
虫の音 家の灯りまた一つ
昨日に引き続き、今日も真夏日だった。風があったので昨日より過ごしやすいなと思っていたが、午後になると次第にムシムシ。大気の状態が不安定で雷もゴロゴロ、雨もパラパラ...こうなると湿度も急上昇!
21:00を過ぎて、ようやく窓の外から虫の音が聴こえるようになった。そう、こんな時間なのに、まだ窓は幾つか開いたまま。気温は20℃もある。日中との気温差が10℃あるのは幸せなこと。とはいえ、”ひんやり”だけでは済まないジトリとした空気に、今宵は照明器具も控えて過ごしている。都心はさぞ暑いのだろう、別荘の灯りがまたひとつ増えている。
2008年07月04日
シワシワになった唐辛子
明け方、だぼたぼのドライスーツを無理やり着せられるという奇妙な夢を見た。寝ぐせの悪い私はいつものように綿毛布を蹴飛ばして、その変わりに足元に置いた羽毛布団にくるまっていたのだった。いつもなら、それでもちょうどよくなるのがここの朝。しかし、今朝は気温の上昇が早かったらしい。喉が渇いてたまらずにキッチンへ向かう。
午前中の間に、気温は28℃まで上がっていった。先週は35℃の中で過ごしてきたため余裕にも見えるのだが...。しかし、太陽までの近さが違う。四方の窓を開けたにもかかわらず、期待していた風がスルリと入ってこない。軽井沢で無風、これは厳しい日中となりそう。曇り空の東京でも31℃というが、軽井沢にとっては正真正銘の真夏日だ。食べきれそうにない生の島とうがらしを、デッキ テーブルの上で乾燥させてみる。すると、わずか3時間でここまでシワシワに。照りつける紫外線の威力を見せつけられる。何かを殺菌するため、乾燥させるために今日のような紫外線を利用するのはとても有効だ。しかし、無防備すぎる人の肌にとっては大きなダメージを及ぼしてしまう。軽井沢に降りそそぐ日差しは、一年を通して山の稜線のようなもの、くれぐれもご注意を。

デッキの下を覆いはじめたミントの葉を刈り取って、大きな鍋で蒸してみた。ミントのエキスは自然と水滴に混じるから、蒸留装置がなくても大丈夫。これに微量の植物性グリセリンを入れて精製水で薄めれば、夏の日に嬉しいローションに。枕にスプレーすれば、心地より眠りも期待できそう。蒸している間にリビングに広がる爽やかな香りが、ほてった体を静めてくれた。
2008年07月01日
背丈を伸ばす 夏
旅から戻った翌日、梅雨空の下で青みを増した庭へ入っていくと、植物の背丈がぐん!と伸びていて驚いた。萩やヤマオダマキは出かける前より20センチは成長し、つぼみだったヤマオダマキは私の知らない場所でも花開き、花によって自らの存在を知らせているように見えた。この黄色い花を見るのは確か7月になってから...と記憶していたのだが、今年はいつもより早いようだ。

今日から7月!早くも2008年の折り返し地点に入っていく。軽井沢に”夏のもの”と感じられる日差しが注ぐのは9月までの2ヶ月間。その間には冷たい雨も降るし、昼間から霧が出る日もある。日数にすれば、夏日と言える日は30日もないのかもしれない。だから、天気の良い日はできるだけ太陽の下で過ごせるように努めていきたい。夏は暑いから嫌なもの...大人になって夏休みというものが消えてから、コンクリートジャングルで暮らすようになってから、いつしか夏という季節はあまり好きではないものへと変化していた。しかしここで暮らすようになってからは、夕方まで半袖姿のままでいる!(実際に、このような日は数えるほどしかないが)というだけで夏を生きていることを実感できる。厳しい冬に対して夏の暮らしは、忘れ物がありそうなくらいに身軽な日々。高原の夏は謳歌するもの。秋の山野草で庭が彩られるのは、それほど遠い日ではないのだから。

旅の間の変化は植物の背丈だけではなかった。3年目のハイブッシュブルーベリー チャンドラーに待望の実がついた。



